半ドン、人面犬、カセットテープ、テレビ番組の白い手書きテロップ…。
昭和の末期ならしっかり記憶している世代の僕が、平成生まれや21世紀生まれが知らないとおもうことを、手当たり次第に書いてみる記事です。
でもまあ、平成も最初の頃に生まれていればすでに30代なわけで、その中には、僕など到底及ばないような現代生活史の知識を持っている人たちもざらにいるだろうな。
とりあえず、この記事の内容は基本的に記憶頼みです。間違いもあるかもしれませんのでその前提で。
「昭和のお話だよ!」と『まんがはじめて物語』のモグタン風に始めます。
夕刊
全国紙を購読していると気が付かないかもしれないけれど、かなり前から、地域によっては地方紙の夕刊は廃止されている。
いま高校生くらいだと、夕刊を見た記憶がない人も多いんじゃないだろうか。
1日に2回、新聞が宅配されていたことは、いまとなっては異文化という感じさえするな。
夕刊だけ配達するアルバイトは、場合によっては小学生の子どもがしていたこともあった。おそらく家計の足しになっていたのだろう。
市外・市内局番
固定電話で電話を掛けるときは、市外局番+市内局番+4桁の番号を押す(回す)必要があった。
掛ける相手が同一の区域内であれば、市内局番+番号だけでいい。僕が子どもの頃は、近所に電話するときは最後の4桁だけでよかった。
市外局番をつけずに電話をかけられるという事実は、携帯やスマホの普及で継承されにくくなっているのではないか。
家の電話には、レースの縁取りのついたカバーがかかっていたっけ。
半ドン
土曜日に会社や学校がお昼で終業することを、半ドンといった。
僕は、昭和生まれではあるけれど、半ドンという言葉自体はあとになってから知った世代だ。のどかな響きだなと思う。
小学生の頃は、土曜日に3時間目までの授業が終わると、学校から家まで走って帰ってテレビのプロレス番組を見ていた思い出がある。BMWの提供だったな。
確か高校生までは、土曜日も授業があった。週休2日になったのは大学からだ。
いまふりかえってみて、土曜の午後というのは、高校生くらいの年代にとって、青春イベントの発生する貴重な時間帯だったのかもしれないとふと思う。
聖徳太子のお札
1万円札と5000円札の肖像が聖徳太子だった。
なぜ聖徳太子は2種類のお札に載っているのだろうと思った記憶はたしかにある。しかし聖徳太子の5000円札には見覚えがないのだ。
むしろ当時を扱ったフィクションで目にすることがあるせいで、昭和の1万円のほうだけは覚えている気になっていたのだろう。
伊藤博文の1000円札は記憶している。このお札は色がいいと思う。
岩倉具視の500円札など、昭和生まれでも見たことがない人はけっこういるかもしれないな。
鳥山明の漫画『Dr.スランプ』の中で、デートに行くタロウに弟ピースケが渋々渡したお小遣いも500円札だった。
電話加入権
携帯電話の普及以前、固定電話を部屋に引くときには、電話加入権というものを買わなければならなかった。
7万2000円というその金額を、なぜか記憶している昭和生まれは多い。
これは今でも施設設置負担金という名前で残っているけれど、金額は半額近くまで下がっている。
学研の学習と科学
『科学』と『学習』は、学研が出していた学年誌。3年の学習とか4年の科学とか、学年ごとに発行されていた。僕も小学校の一時期は取ってもらっていたな。
学習は2009年まで、科学は2010年まで存続したので、平成生まれでも知っているひとはいそうだ。
毎月6学年ぶんの付録を考えるのも、さぞかし大変だったろう。
冷蔵庫の後ろのパイプ
昔の冷蔵庫の後ろ側には、放熱のためのパイプがむき出しでついていた。触れると熱いしホコリは溜まるしで、小さい頃は手を突っ込むのが怖い場所だったなあ。
筆記体
むしろ今の中学で筆記体を教えていないことを知ると、昭和生まれのほうが驚く。
筆記体で英文を書けるのは、日本の一定年齢以上の世代の特殊技能だ。英語圏の人々にも書けない人は多いという。
西ドイツ・東ドイツ・ソ連
ソビエトは連合だったか? 連盟か? いやなんだか違うなと思ってしばらく考えて、ようやく「ソビエト連邦」を思い出した。ソ連は遠くなりにけり。
ドイツがひとつになるとかソ連が解体するとか、僕は10代だったけれど、世界の歴史が新たに書き換わるのをぼんやり見ていたなあ。
クリーム色の車
クリーム色の車はいつごろなくなったのだろう。
いまもあるなら、車種によっては乗りたいのだけどな。ミニとかフィアット500とかレトロな雰囲気がある車は、この色も似合う。
僕の子どもの頃の近所では、クリーム色の車に青海波みたいな模様でワックスを塗られてしばらく放置されているのをたまに見かけた。
日光で色があせて、屋根やボンネットがオレンジ色になった赤い車も見なくなったね。
人面魚・人面犬
人面魚というのは、池の鯉が写真の写りによっては人の顔に見えるというもので、実際に存在し、一時期ワイドショーネタになった。平成初頭だったと思う。
人面犬は口裂け女のような怖い噂話のひとつで、犬におじさんの顔がついているというもの。「都市伝説」という単語は、そのころ初めて耳にした。
ほぼ同時期に人面生物ネタが相次いで話題になったのが面白い。
風船おじさん
風船を気球のようにかごに括りつけて、それに乗って太平洋を横断しようとしたおじさん。
一度失敗して住宅地に落下し、釈明のインタビューを受ける映像がYouTubeにも上がっている。
その時の制止を振り切って飛んで行ってしまう様子が怖い。
ジョルトコーラ
ジョルトコーラ、飲んだ記憶はあるけどあまりいい印象は残っていない。
当時の僕は別にどれでもいいと思いつつも、どれかといえば輸入のクラシックコーラを好んでいた。開け口のところに輸入業者のシールが貼ってあったな。
90年代くらいまでは、道路わきにぺしゃんこに潰れたジュースの空き缶が散らかってたりした。これってポイ捨てしないマナーが向上したのか、ペットボトルが普及したから少なくなったのか、あるいは、アルミ缶を集めて換金する稼業が広まったためか。
官製はがき
民営化したので「官製はがき」はもう存在しない。でも郵政民営化のもっと前から聞いてない感じの言葉だ。
テレビ番組のはがきによるプレゼントの抽選が少なくなったこともあるだろう。もはや懐かしい響きである。
ちなみに僕ははがきの値段が40円だったのは覚えている。家にあった古いはがきでは、20円というのもあった。現在は63円。
物品税
ついでに消費税の話もしておこう。
1989年に消費税が導入されたとき、物品税という「ぜいたく品にかけられていた税」が撤廃された。
これによって国産のロック・ポップスのCDの値段が3200円から3008円になったのを覚えている。
Jポップという言葉はその時はまだなかった。EAST END×YURIの「DA.YO.NE」(1994年)あたりからよく聞くようになったと記憶しているけど、当時の僕は「じぇいぽっぷうぅ~?」というような印象だったし、基本的に今でもあんまりいいネーミングじゃないと思っている。
これは93年のJリーグが嚆矢だろう。あの頃は、新発売の缶コーヒーでもなんでもJがつくのが流行りだった。
8cmCD
シングルCDは短冊形のケースに入った直径8cmのCDだった。
90年代は、このシングルCDが売れに売れた時代でもあった。
僕もまだ何枚か持っているけれど、再生することはほとんどないな。
洗剤の大きな箱
80年代前半の漫画『Dr.スランプ』の中のひとコマ。洗濯洗剤の四角い箱が描かれている。実際はこれより大きいサイズのものもあった。
洗剤の箱が小さくなったのは、昭和末期の「アタック」や「トップ」の出現以降だ。
「ザブ」「ブルーダイヤ」はもう久しく聞かない名前で、箱の大きさともども懐かしい。
「ブルーダイヤ」のCMでは、「♪金・銀・パールプレゼント~」というメロディーがつきものだったけど、幼いころの僕は、当たりの洗剤の箱の中に宝石が入っているのだろうと考えて、母親に当たりが出てきたことがあるか聞いたことがあったな。
図書券
90年代までの児童生徒にはけっこうもらう機会があった図書券も、2005年で販売が終了している。
現在は図書カードNEXTというのが販売されている。でもおじさんは見たことないよ。
様方
いまの小中学生は、はがきや手紙を出すときに、保護者の名前に様方(さまかた)をつけて宛名に添える方法について学校で教わるだろうか。
昔は新聞の夕刊などに読者の交流欄のようなものがあり、ペンフレンドやイラスト交換相手の募集が載っていたりした。
その多くは中学生前後の子どもで、宛先には「〇〇様方・とらぶるめ~か~」とか、「〇〇様方・もろこしポン太郎」とかの面白恥ずかしい名前もあった。
UHF
テレビにはUHFのダイヤルが付いていた。
昭和のテレビといえばガチャガチャと回すチャンネルのイメージがあるが、それはVHF。もうひとつ別の方式で送信されているチャンネルもあり、それはUHFのダイヤルを回して選局する。
UHFのダイヤルはガチャガチャではなくくるくる回すのだけど、チャンネルが映るまでの回転量が多かったな。
テレビにリモコンがない時代もあったなあ。エアコンのコントローラーボックスも壁や柱に固定されていたっけ。
ホームサイズ
いまでは500mlのペットボトル飲料も普通だが、昭和の時代は同じ量をホームサイズと銘打ってガラス瓶で売られていた。
ファンタとかコーラとかスプライトとか、そういえば炭酸飲料が多かった。
カセットテープ
平成生まれでもカセットテープ自体は知っていると思うけれど、ケースが今のより厚かったのを知っていたらその人は昭和生まれだろう。
黒と透明を組み合わせたケースは懐かしい。
80年代末ごろ、それまでとはテープを逆に入れる方式の薄型ケースが出てきたときは、こんなことになぜ今まで気が付かなかったのか、と思ったな。
しかしケースがスリムになると、雑誌の付録などについていたインデックス用のカードがそのままでは入らなくなったりしたっけ。
CDを録音するときは、音にこだわってノーマルではなくてハイポジを買ってましたね。その上のメタルテープは高くて買えなかった。
啓発CM
80年代半ばごろは、交通安全やマナー向上の啓発CMがよく流れていた。
アニメもあったし実写のもあった。登場してくる人の服装やノイズのひどさが、それ以前から長いこと続いているのを感じさせる。
ベトナム難民
ベトナム・ラオス・カンボジアでの内戦や社会主義化から逃れて、船で日本にたどり着くベトナム難民のニュースは、80年代前半ごろまでたびたび目にした。
小舟で外洋に出て、付近を航行する貨物船などに救助されるケースが多かったようだ。
その時舟に乗っていた子どものひとりが成長して東京で料理店の経営者となり、救助した水産学校の実習船の船長と再会したというニュースも、先日SNSで目にした。
現在の日本は難民に極めて厳しい、あるいは冷淡な政策を取るようになっている。均質社会への移民流入に対する警戒感はわからないでもないが、一方では外国人研修生を低賃金労働者として使い捨てる現実もある。これは事実上の移民であって、入管行政を含む制度的な不健全さは、是正されてしかるべきだろう。
中国残留孤児
敗戦時に中国大陸からの引き上げに加われずに取り残された孤児たちが、1972年の日中国交回復後に肉親を捜すため日本を訪問するニュースも、80年代まではよく見た。
彼らも戦争の犠牲者たちだけれど、国交回復時にはすでに成人していたし、時を隔てて親類を探し当てる手掛かりはもう少なかった。時間が物事を解決せず、解決の壁として立ちはだかった悲しい例といえるだろう。
白い手書きテロップ
ワイドショーや一部バラエティ番組の画面隅には、白い手書きのテロップが表示されるのが常だった。90年代前半ごろまではあったと思う。
朝の着替えをしながら横目で見ていたワイドショーに出ていたドラマの番宣「子連れ狼 今夏(こんか)再登場」のテロップを、「子連れ狼 今更(いまさら)再登場」に空目したのを、なぜか今でも記憶している。
切符切り
駅の改札には駅員さんがいて切符にはさみを入れてくれた。
切符を渡す前からチャキチャキとはさみを鳴らしてリズムを取っていたな。
改札が自動改札になり、さらにICカードが普及して、都市部の駅ではあのシーンを見ることはなくなった。
ササニシキ
一時期はコシヒカリと並び称されるおいしいお米の銘柄だったササニシキは、一体どこに行ったのだろう。
コシヒカリよりはさっぱりした味のお米だとは当時から聞いていたけど、少年だった僕にはまだ、その違いは判らなかった。
いまでいうなら北海道のきららみたいな味だったのだろうか。まあ僕は今でもお米の味はよくわかってないけれども。
ビールの水着ポスター
平成が始まってからもしばらくは、水着を着たモデルがほほ笑むビールのポスターは見かけた。各メーカーのキャンペーンガールが毎年いたのだろうな。
ただ当時から、ビールの宣伝に水着である必要が何もないと僕や同級生たちは話していたし、どちらかというとそのために飲酒に誘引されるというよりは、少年なりの忌避感が発生していたように思う。
女性タレントにとってもあまりいいキャリアではないと思うけど、どうだろうか。
テレビのしばらくお待ちください
テレビ画面に「しばらくお待ちください」の画像が出て、その間放送が中断することがしばしばあった。
多くはCMの時間で、数十秒から1,2分待つとなにごともなかったかのように再びCMが流れ出す。
ポテチやお菓子の包装
ポテチもえびせんもキャラメルコーンも、アルミ蒸着の袋ではなかった。袋の一部が透明で中が見えたし、牛乳のテトラパックも透明だった。
また、市販のキャラメルやチョコレートの箱がセロファンで覆われるようになったのは、80年代半ばのグリコ・森永事件で商品に毒を入れるという脅迫が届いたのがきっかけだ。
著者検印
本の奥付に紙が貼ってあって、それにハンコが押してあった。検印台紙という。
昭和生まれでもこれは古本でしか見たことがない。作家や編集者、時には家族総出でこの紙にハンコを押していたそうだ。
「この本はたしかに当該作家の認定により正式に出版されたものです」という意味があり、印税という言葉もそこから来ている。年代が下ると、奥付に「検印廃止」という記載があったりする。
仁丹
アラザンを見て仁丹を連想しない世代がうらやましい。
(写真はアラザンです。)
Hi-Fi
Wi-Fiではない。Hi-Fi。High-Fidelity(高忠実性)の略だ。
アナログ時代には、このハイファイが黒物家電のキーワードだった。
ちなみにWi-Fiは、ワイヤレスフィデリティの略だそうだ。ま、よくわかりませんね。
ポケベル
過渡期のモバイル通信ツール。
これ自体で情報の伝達をするものではなく、これが鳴ったら表示されている番号に電話連絡してきなさいというメッセージなのだけど、90年代の若者たち、とりわけ女子高生は、数字の語呂合わせで仲間どうし意思疎通する高度な使いこなしを見せた。
強盗
強盗のニュースがよくあった。コンビニが一般的でなかったころは、一般家庭に押し入った強盗がよく捕まっていた。
捕まったら捕まったで、昭和のニュース番組では「〇〇容疑者」ではなく、苗字を呼び捨てにして報道されていたな。
海外のニュース
海外のニュースなんて今もあるよと思うかもしれないが、昔と比べるとめっきり減っている。
日本とは直接関係のない事件や紛争のニュースも、特派員を派遣してまで、日々テレビで伝えられていた。
ストレートニュース番組が視聴率を気にして報道ワイドショーという名の旬ネタ消費番組に変質した今では、そうした報道はもう手に入らない。
巻き戻し
いまのブルーレイやDVDプレーヤーのリモコンには「巻き戻し」がないというと、昭和生まれのおじちゃんおばちゃんは驚きます。
現在は早戻し。テープを巻かないもんね。
3倍録画
ビデオデッキには、標準録画モードと3倍録画モードがあった。
3倍モードはテープの進行スピードを1/3にすることで標準の3倍の時間録画することができるが、画質は低下する。
いまでいうとMP3のビットレートを下げて音質を犠牲にする代わりに容量を節約するような感覚だろうか。
テレビ台にいくつも積んであった雑用VHSテープは、3倍録画で何度も重ね録りするものだから、画質の劣化がひどかった。
砂嵐
テレビのアナログ時代は、放送を受診していないチャンネルのざらざら画面を俗に砂嵐といった。
YouTubeにも多数アップロードされていて、赤ちゃんの寝かしつけに役立つのだとか。
空きチャンネルごとに違う砂嵐があったね。
赤チン
赤チン。擦り傷など小さいけがをすると赤チンを塗られた。正式名称はマーキュロクロム液。
子どもの替え歌で塗ったら毛が生えるのは黒チンだが、残念ながら存在しない。本当にあったら頭に振りかける成人男性が続出するだろうな。
赤チンを生産しているのはすでに1社に減っていて、2020年には終了が決まっているという。
同時上映
同時上映とは同じ画面で半分ずつ別の映画を見るのでしょうかという質問を見て、昭和世代が震えている。
同時上映の映画は、1回分の入場料金で別の映画を連続して2本見ることができた。「併映(へいえい)」とも言ったね。
ヒット作の続編の『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』を見に行ったら、同時上映の無名作品『トレマーズ』のほうが面白かった、という意外な掘り出し物をするチャンスでもあったのだ。
色の違うティッシュ
箱入りのティッシュペーパーは、残りの枚数が少なくなると色が変わった。「そろそろなくなるよ」というお知らせなのである。
高いティッシュは今もそうなのだろうか? 僕は安いのしか買わないからよくわからない。
色が変わるのじゃなくてロゴが入ったティッシュが出てくるのもあった気がする。大昔のクリネックスとかそうじゃなかったかな。
木の電柱
木の電柱はいまでも建物への引き込み線用に私有地に立っていたりするが、大通りの電柱ではもう全然見なくなった。昔はたくさんあったよねえ。
素人参加番組
『クイズ100人に聞きました』『オールスター家族対抗歌合戦』『風雲たけし城』など、芸能人や著名人でない一般視聴者が参加する番組は、90年代ごろまではたくさんあった。
レギュラーの番組以外のバラエティでもよく企画されていて、東京六大学の学生対抗のガマン大会などはもう一度見てみたいと思うことがある。
こうした素人参加番組で人気者になって、タレントに転身した人たちもいた。もともと芸能事務所に所属していた人もいただろうけれど、『天才たけしの元気が出るテレビ』にはそんなケースが多かったな。
僕の記憶が確かなら、いま政治家になっている元俳優の山本太郎氏は、ブレイクのきっかけとなった「ダンス甲子園」の最終回、白いスーツを着て(シャツは着ていなかった気がするが)、これからの夢や目標を聞かれて、「俺は総理になる!」と宣言していた。彼が衆院から出て与党に入ることがあったら、その映像が発掘されるだろう。
素人参加番組、今は『のど自慢』が残っているくらいかと思ったら、それでもまだけっこうあるようだ。
テレビの紫のカバー
テレビのブラウン管の画面を覆うように、四角い薄紫色のアクリル板を取り付けている家庭が結構あった。いわばテレビ用サングラスである。
あれはどういう意図でそうしていたんだろう。やっぱりテレビは目に悪いということだろうか?
地デジチューナーを取り付けてアナログのテレビをまだ使っている家庭は日本中探せばけっこうありそうだけれど、あの紫カバーが現役で使われているご家庭は…さすがにもうないか。
おしゃれ
バブル期~90年代前半最大のマジックワード。
バブル経済
今の若者は、戦後の困窮期以外の(あるいは白黒映像以外の)昭和は全部ひっくるめてバブル、と思っているふしがある。しかし当時を中高生として生きたものの実感としては、せいぜい3、4年くらいのものだった。
またバブル経済が「はじける」つまり株価や土地の価格の高騰が終息したあとにそれをもってバブルと名付けられたと思っている人は、バブル期を見てきた世代の中にもいる。
実際は当時の好景気の最中にも、それがバブル景気だということは言われていたのだ。
バブル期にはお金の力を背景にしたイケイケの成金カルチャーも発生したけれど、同時に企業による文化活動も華やかだった。世界中のアートや情報がどっと流れ込んできた時代でもあるのだ。
そのおかげで、ただその時代を生きている人々まで、文化的な底上げの恩恵に浴することができた側面が、バブルにはある。田舎住みの中学生・高校生だった僕がそうだったし、そのことは常に言及していきたいと思う。
僕は消費市場としてのバブルニッポンには参加できなかったしそのことは残念でもある。でもそのあとに続く世代として、常に世界への窓が開いている社会で自己形成できたことは、それなりに有意義だったと思っている。