ことし2020年は全国的に梅雨が明けるのが遅くて、7月の最終週になってもまだ沖縄と奄美以外では梅雨が明けていない。
そんなことからか、コメの冷害について心配する声もSNSでちらほら見かけるようになった。
おそらく1993年の冷夏とコメ不足の狂騒曲を記憶している世代が発信しているのではないかとおもう。
大学1年生だったぼくも当時のことはよく覚えているのだけれど、あの時話題になったブレンド米はついに食べる機会がなかった。せっかくなのでどこかで食べておけばよかったと思う。
ブレンド米は平成の米騒動の象徴といっていいものだったけれど、あれは自然のめぐりあわせと失政が組み合わさって現れた、いわば人工的な二次災害のようなものだった。
1993年のコメ不足
1993年もことしと同様に全国的に長梅雨で、それがコメの生育に影響した。
当時コシヒカリに並ぶ人気銘柄だったササニシキは低温に弱く、この年の不作をきっかけに作付けされだした新たな銘柄にとって代わられるきっかけの年になった。
収穫できた国産米が大幅に不足していることから、輸入したタイ米(おもにインディカ米・長粒種)と国産米(おもにジャポニカ米・短粒種)を混ぜてブレンド米として流通させる政策は、種類の違うお米を混ぜることで調理法や食味がどっちつかずの中途半端なものになる結果を生み出すことになり、総じて悪評ふんぷんだった。
これは社会政治的な面からも、官僚的で事なかれ主義的な横並び意識の悪い現れとして、リアルタイムで批判されていた。
「純粋な」国産米は争奪戦になり、城南電機の宮地社長が闇で仕入れた米を売り出して脚光を浴びたりした。米泥棒のニュースも聞いたような気がする。
しかしその一方で、沖縄では、そのころも普通に国産米が流通していた。
学校へ行くために朝の着替えをしながら、「なんと沖縄では、まだ国産のお米が、ふんだんに流通しているというのです!」と急遽来県したワイドショーのレポーターが喋るのを見ていたのを思い出す。
そうした報道がきっかけで、沖縄のお店や個人に「お米を送ってくれ」という注文が殺到したという県内ニュースも見た。
その後も沖縄では、米が極端に品薄になるということはなかったようだ。
翌年の春に初めてひとりで旅行した時、四国のどこかの街で適当な食堂が見つからず、コンビニでお弁当を買って食べようとしたら「ご飯だけ別売り」の貼り紙があり、ああここではまだ米不足が続いていたのか、と思ったものだった。
この年の不作が原因で、翌年作付けするための種もみすら不足する事態になって、岩手の苗を温暖な石垣島に運んで育苗するプロジェクトが敢行されたりもした。
そうしてできたお米「かけはし」もいまではひとめぼれなどにとって代わられているが、石垣・沖縄と岩手の交流事業やお酒の名前にその名を残している。
いまのお米は、1993年当時よりも冷夏に強い品種になっている。だからいかに今年が長梅雨とはいえ、極端な凶作は起こらないだろうとぼくは楽観している。