音読と黙読と、あるいは書写と

黙読・音読

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』という映画のDVDを見た。

実在した詐欺師の自伝をベースにした、2002年のスピルバーグ監督作品だ。若き主人公フランク・アバグネイル.jrをレオナルド・ディカプリオが演じた。

ディカプリオ演じるフランクは、アメリカの各地で偽名を使い小切手偽造などの詐欺を働きながら、きわどいところで捜査の手を逃れ続け、その過程で職業もパイロット、医師、弁護士と次々に変えていく。

驚異的な観察眼や父親譲りの”女たらし”ぶりをいかんなく発揮するその手口の数々も見どころだし、1960年代のファッションや航空会社の様子なども魅力的なエンタメ映画だ。クリストファー・ウォーケンやマーティン・シーンといったベテラン俳優の存在感もよかった。

 

でも今回の記事は、この映画についての話ではない。音読になんらかの効果はあるか、という話なのだ。(あらかじめ言っておくと、たいした結論は出ない。)

この『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の中に、こんなシーンがあった。

フランクは、自らの結婚パーティーの最中、FBIの追っ手(トム・ハンクスら)に家に踏み込まれる。

そこから急いで逃げ出してあとで駆け落ちをするために、落ち合う場所と時間を婚約者に指示するというシーンだ。

そのセリフの中で、婚約者のブレンダに、約束の場所と時間を「復唱」させるくだりがある。

Listen to me. The international terminal in Miami. Say it.

No matter what, be there at 10 a.m.

「言うことを聞いて。マイアミの国際線ターミナルだよ。言ってみて。」

「何があっても、午前10時にそこにいるんだよ」

In two days. Two days,Brenda. Two days.

「2日後だ。2日だよ、ブレンダ。2日後だよ。」

それに対してブレンダも、「マイアミ空港の国際線ターミナルに、2日後の午前10時にきっといるわ」と答えるのだ。

それを見て僕は、なるほど声に出すことでそれだけ忘れにくくなるわけだな、と深く納得したのだった。

 

ところで、話はがらりと変わるけれども、僕はこのところ、複数の本を並行して読んでいることが多い。

1冊を一息に読み通す集中力、あるいはその源泉としての体力が、だんだん失われてきているのだろう。

今日もDVDを見たあとに読みさしの3冊を少しずつ読みながら、さっき見たシーンのことをふと思い出したので、声には出さないまでも「頭の中で音読」してみることにした。

もちろん僕も普段はほかの大多数の人々と同様に、本を読むときは黙読している。視線で行を追っているだけで、頭の中でも音読はしていない。

頭の中で音読をすると、読書のペースは、普段本を読む速度の半分以下になってしまう。自分が発声できるスピードよりはどうしても速くならないのだ。黙読で読んでいるときのスピードはそれよりはるかに速い。

興味のある人は自分で試してみてもらいたいんだけど、声に出さない音読をしてみて、速度がゆっくりになったぶんだけ逆に内容の理解度が増すかというと、実際には、増さない。

案に相違して、むしろ文章内容の理解度は低下する。何を読んでいるのかだんだんわからなくなってきさえする。

―やっぱり I was bornなんだね―

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

―I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね―

その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。 僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

吉野弘「I was born」抜粋

これくらいならわかる。

わかるけど、なんだかいつもより深くわかる、というような感触までは、別にない。でも頭の中で音読したまま、いくらでも読むことができる。

田中 和雄 (編集)

 

問題は次のような文章だ。

 鶏林の干戈(かんか)はさることながら嵐山の花だよりに京の賑わいは格別、その春の夜の盞(さかずき)を銜(ふく)んでひとり町中の詫住(わびずまい)、泰平法楽の姿とはいえ油断のならぬ天が下、わけても利休居士刑死の後は世上とこうの取沙汰取締の掟きびしく、禁句ずくめで洒落も出ず、上臈相手のおどけも物憂く、所労と称して聚楽の第にも伺候(しこう)を怠り、いっそ酔うて寝るだけの浮世と、衡門(こうもん)閉ざして肘枕、軒端ゆかしき月かげに陶然と独吟、いつか夢路に入りかけたところへにわかに来客の知らせ、客は奉行石田三成と聞いて、はて心得ぬ、出頭第一の権者(きけもの)が夜陰にまぎれて訪れは何事か、むげに断りもなるまいと渋々起き上った曽呂利新左衛門、衣紋掻い繕いつつ出で迎え、これは治部殿、朧夜のお忍びとは風雅な、まず一献と銚子取り上げる手許押さえて光成が、いや、今宵人知れず参ったはさような浮いた沙汰ではない、ちとそなたの知恵を借りたい一義がある、さりとはお目違え、当時底の抜けたてまえの智慧袋とんとお役には立ちますまい、まず聴け、仮病使って太閤のご機嫌をも伺わぬ曲者の性根(しょうね)見込んでの頼みごと、その仔細は、(後略)

石川淳「曽呂利咄(そろりばなし)」抜粋

こういう文章を音読していると、最初のうちこそ内容も理解しているけれど、しだいに「読む」ことだけに集中してしまい、数ページ進んだところで全然頭に入ってきていないことに気づいてはっとする瞬間がある。

「曽呂利咄」は文庫で十数ページの作品だけれど、全体がたった1文で書かれていて、ただひたすら文章のリズムに乗って、ぐいぐい先へ先へと引っ張られていく快感がある。

しかしその快感は物語内容の理解を前提にするものではない。

ふと思ったのは、これってJポップや歌謡曲の歌詞と似ているなということだった。

僕が子どものころは今ほど音楽の嗜好が多様化していなくて、流行の曲はテレビやラジオで長期間にわたって何回も繰り返し耳にしたので、ヒットチャートの上位の曲は自然に歌詞まで覚えてしまって、いまでもそこそこ歌える曲がある。

それでも、あらためて歌詞を見ながら聴くと、この曲はこんな内容だったんだ、と新鮮な感慨を覚えたりする。まあ単純に僕が子どもから大人になったこともあるのだろうけど。

今以上 それ以上 愛されるのに
あなたはその透き通った瞳のままで
あの消えそうに
燃えそうなワインレッドの
心を持つあなたの願いがかなうのに

「ワインレッドの心」 詞:井上陽水

 

歌える(または音読できる)けれど内容は理解はしていない、という状況も確かにあるのだ。

だから、必ずしも音読によって理解が深まるとは僕には思えない。

子どもの場合には、自分では読んでいるつもりでも、実際には文字の上を目が滑って読めていない状況もあるかもしれない。そのような場合にはしっかり一語一語を追える音読のほうが適している可能性はあるだろう。

 

ただ、同じ文章を書き写してみると、少なくとも黙読と同程度には、あるいはそれ以上に内容が頭に入ってくる感じもある。

理解度で並べると、「書写≧黙読≧音読」という順序が(少なくとも僕の中では)成り立つようだ。

 

あとは余談になるけれど、そういえば高校の頃の模試やセンター試験などでも、英語の文章を日本語のように、音読のスピード以上の速さで読むということができればなあと思ったりしたものだ。

今でもその壁は超えられていなくて、ごく単純な文以外は、黙読の速さで英文が読めるようにはなっていない。相変わらず文章を「頭の中で音読」しないと理解できない。まあ音読しても理解できないことも多々あるけど。

英文を音読から黙読にしていく過程には、どこかでブレイクスルーのようなことがあるのか、それとも慣れかなにかで、黙読のまま理解できる英文が単純な文から複雑な構文へ次第に広がっていくのか、まあどちらでもいいけれども、いつか身をもって体験できればいいと思う。

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