沖縄直書き看板アーカイブ

沖縄には、個人商店や中小企業の屋号を、コンクリートの壁にペンキで直接描く、直(じか)書き看板という商店建築カルチャーがある。

街を歩けば今でも現役の実例を多数見つけ出すことができるけれど、味わいのある直書き看板は年々減りつつある。

この記事では、そんな沖縄の直書き看板をアーカイブする。

ほとんどが本島南部や那覇市内で10年またはそれ以上前に撮った写真で、建物自体が今はなくなっているものも多い。

沖縄の直書き看板

典型的な直書き看板。新しいものに塗り替えられたあとに古い店名が浮かび上がってきている例は数多く見つかる。集落内にあるこういう鮮魚店は「さしみ屋ー」と呼ばれた。糸満市。2004年。

元は本屋だった。糸満市。2004年。

看板を撤去したらその下から現れたと思しき直書き看板。糸満ロータリー近く。2004年。

SONY改めぜんざい屋。糸満市。2004年。

なんでも美(ちゅ)らだった頃。南山病院近くの県道7号線。2004年。

関係ないけど、高校の数学の証明問題を鮮やかに解けると「エレガント」などという受験業界用語が昔あった。

コーヒーシャープは、coffee shopの耳英語。糸満ロータリー近く、2004年。うしろに山巓毛(さんてぃんもう)の展望台が見える。

糸満市内の路地で発見。過去にはレンタルビデオ宅配(?)だったことがうかがわれる。2004年。

白抜き明朝体できっちりペイントしている。洋酒を扱っていたのだろうスマートな直書き看板と、小さい縦型看板の組み合わせ。ビールケースやポスターがあるから現役の酒屋さんか。お隣の登記測量事務所ももちろん直書きだ。糸満市、2004年。

おもちゃ・駄菓子と書いてある。糸満小学校が近くにあり、いっせんまちやーだったと思われる。

「いっせんまちやー」は子ども相手の駄菓子屋のこと。「いっせん」は一銭ではなくて1¢。まちやーも「まちゃー」のように発音する。2004年。

これも同じ通りにあったトントンハウスとぐしけんストアーズ。2004年。糸満ロータリーから東向けのこのあたりはその後再開発が進み、古い建物は建て替えられている。

塀に直書き広告。ヘロンウイスキーというものが以前あったらしい。

豊見城交差点から真玉橋向けに坂を下り切ったあたりで撮影。この写真は2004年だけど、2018年9月撮影のGoogleストリートビューでもまだ確認できる。

東風平の路地だった気がする。2004年。

南風原町津嘉山の川下原バス停近く。2004年。

ミニマル。糸満市真栄平、2004年。

コカ・コーラの自販機用の直書き看板。いつ頃の作なのかロゴの形から鑑定できる人もいるかもしれない。糸満市国吉、2004年。

直書き看板に飲料メーカーのマークを入れている商店は多い。同様に横断幕にもコーラのロゴが入ったりする。そうすることで看板製作代が安くなるとかいう噂は聞いたことがあるが、真偽は不明。これはペプシからコカ・コーラに乗り換えた歴史のあとか。糸満市、2004年。

那覇市松川。1字分の空白がその来歴を雄弁に物語る(ような気がする)、2004年のリズニー幼児学園。いまはもうない。

南城市の旧玉城村のどこかだったと思う。セブンアップはレアかもしれない。飲み物や氷のことを「冷し物」とか「冷やし物一切」とか表現する定型がある。2005年。

新しいお店でも直書きだし、冷し物。2005年。これも旧玉城村だったか。

旧東風平町で2005年に撮影。このチキン屋さんの葉津さん(またの名をはっちゃん)は、数百メートル先に移転、「七転八起が好き」の看板を今も掲げて営業している。

那覇の樋川の路地だったか。地域内の子ども向けの表示。

「禁」の字で、次に書く字を先取りして書いてしまうありがちな誤字がある。「後后七時」も、書きたかったのは「午后」のはずだ。でも筆跡が立派なのでメッセージ力が強い。2005年。

真玉橋の赤十字病院やベスト電器があったあたりの路地で。近隣住民の記憶にいつまでも絵として残っていそうな肉の字のインパクトが強い。2005年。

こちらの理容館も同じ路地を歩いていった先にあった。

これも同じ日に撮影。この亀のイラストはなんだろう。不動産屋のマスコットキャラクターだろうか。

職場囲碁大会の直書き看板という珍しい例。コーヒーをコーヒと書く例は別の場所でも見たことがある。那覇市与儀あたり、2005年。

どこで撮ったか記憶にないけど、浦添支部とあるから浦添のどこかなんでしょう。拳の字が強い。2005年。

これは 東芝の (東芝ではなく、日立でした。訂正いたします。)ポンパ君という鳥のキャラクター。那覇高校近くで2005年に撮影。

90年代半ばごろまでは、結構な田舎でさえも個人営業の小さな家電メーカー代理店はあった。コンビニが出店してこないような集落でも、東芝やナショナルのお店はあったりしたのだ。

左右対称にこだわって、左側は「(所作)製トンテ トーシ」と表記されている。名護だったか、恩納村だったか。2005年。

どんなみはらしがあるのだろう。古波蔵から楚辺方向。2006年。

水タンク台もみはらしだった。図案にもなにか由来がありそうだ。

与儀大通り。古い木造にゴチックで直書きは珍しい。2007年。

古波蔵あたり。2007年。

これも直書き看板の現代版と言っていいだろう。真玉橋にあったPCデポ。2008年。

商店のたたずまいがいい。国場十字路から寄宮方面に上がっていくあたり。2009年。

隣の塗りつぶされたあとで浮かび上がる文字にも味があった。

同じ道を進んでいったところ。コーポラスだいわからコーポラスやまたつへ。2009年。

はまがぁ。あね、はまがぁよ、はまがぁ。豊見城にて2010年。

屋号が変わり電話番号が変わっても丸に平のロゴデザインは踏襲。浦添だったような。2010年。

ところで、写真の中に重力を意に介さない様子の猫がいる。隣の建物に飛び移る瞬間だった。

昔からずっと客引きのお兄ちゃんが店の前に立っている土産物屋。国際通り牧志の市外線バス停付近。2010年。

これも一種の直書き看板アート。桜坂、2010年。

古波蔵だったか、壷川だったか。看板を外したらその下から在りし日の痕跡が出てきたパターン。もやっているのではなくて車を降りたら気温差でカメラのレンズが曇ったんだったはず。2010年。

今回発掘した中で一番の直書きカオス看板。古波蔵あたり、2010年。

寿司、おでん、和洋食などの文字が確認できる。中央の黒い文字は「もりよし」と書いてあるのだろうか? 建物が生きてきた長い歳月を実感できるような壁面だ。

沖縄の直書き看板まとめ

なぜ沖縄では直書き看板がこんなに定着しているのか? という疑問について、大きな一枚板の屋根看板やボルトオンの行灯看板だと、設置しても台風のたびに飛ばされてしまうから、とよく説明されている。実際それが一番の理由で今も描かれ続けているのだろう。

しかし戦前の写真を見ると、木造の建物の間口の上に大きな看板を掲げている商店も多かったようだ。いまある直書き看板は、戦後物資に困窮する中で、半ば以上苦肉の策として始まり、育まれてきた沖縄の文化と言えると思う。

多少センチメンタルな想像でしかないが、戦後になってこの方式を始めたときの人々は、ブロックとコンクリート造の単純な形の建物の壁に真新しくて明るい大きな平面を見たとき、そこに自分の屋号を大きく描くことのできるスペースとともに、いくらかモダンな未来と、おのおのの人生の再建の可能性も見出だしたのではないか。

沖縄の戦後の社会には、他府県とは比較にならない大きな困難と変化があった。そのなかで庶民の一人一人が、ただ一つの商売だけを続けて生き抜いてくることは容易ではなかったに違いない。僕は役目を終えて色あせたたくさんの屋号の姿に、人々がそれぞれの役割を担い、その時々を生きながら、地域の中でバトンを渡すように連綿と塗り重ねてきた歴史を見たい。

21世紀になり、戦後当時から元号が二たび変わった今でも、新しい直書き看板をそこかしこに見ることができる。

もしその素朴さの中に、店を営む人たちのみずみずしい希望も垣間見えるように思えるのなら、たぶんわれわれがそんなバトンタッチの歴史の中に生きているからなのだ。

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