山川直人さんの漫画の静かで確かな力

山川直人 作品

1年くらい前に、読んだことのない漫画の1巻だけ買ってみるという記事を書いた。

そのとき買った本の中に、山川直人さんの『コーヒーもう1杯』の最初の巻もあった。

それ以来、ぼくはずっと山川さんの本を読み続けている。

完結漫画7タイトルの1巻だけ買ってみた
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山川直人さんの漫画を読んで感じる独特のなにか

山川直人さんの単行本の帯では、「漫画界の吟遊詩人」、という二つ名のようなフレーズがしばしば使われる。

口笛小曲集

(『口笛小曲集』の帯)

山川さんの漫画の魅力は、ひとつの言葉では捉えがたい。小さな物語の温かさや優しさ、物悲しさやペーソス、またワンダーもこの作家の魅力だけれども、決してそれだけではない。

山川さんの本を読んだあとにじんわりと人が感じるものは、むしろそうした美しい名づけから取りこぼされたままの生活の細部であり、ずっとそこにあるのに気にも留めることのなかった、日常の基盤そのものだ。

山川さんの作品の中では、人が歩けば「とっとっと」と音がする。

台所でコンロのつまみを「かちっ」と回すと「ぼっ」と火が点く。その各々に一コマが当てられる。

冷凍庫から氷を取り出して氷嚢に詰めるというだけの動作が、冒頭から3ページくらいかけて描かれる。

生活の中のごく日常的な動作をこれほど拡大して、しかも繰り返し描く人はほかにいない。

もちろん、その絵柄そのもの、デフォルメしながら質感豊かに描きこまれた背景の小道具たちも、ひとコマひとコマの中から常に日常の手触りを喚起しようとする。

だから山川さんの漫画を読むと、自分の日常生活の中に、ずっと無意識に追いやられて透明な貌をしていた細部の感触がよみがえってくる感じがするのだ。

山川さんの漫画の中で読者は、そんな自分の日常とよく似た細部を共有する、隣町かどこかにでもふとありそうな街の一角で、小さな物語が演じられるのを見たり、しばしば不思議な別世界へ連れ出されたりする。

あかい他人(全)

山川さんの漫画に出会った最初のころ、この人の漫画をぼくはよく今のいままで知らずにいられたものだ、と読みながらよく思った。そんなふうに思ってしまう作品や作家がときどきある。

モーツァルトの音楽に触れたとき、ジャズを聴きだしたとき、フレッド・アステアの映画を初めて見たとき、フォークナーの小説を初めてまともに読んだとき、そのたびにぼくはいつも、なぜ自分はこれをもう少し早く知ることができなかったのだろう、このままずっと知らないままでいたらおおごとだったな、と思ったものだ。

でも、考えてみると、たとえばたかだか20歳くらいでこうした語り口の静かで奥行きの深い漫画作品に偶然出合ったとして、はたしてもっと追いかけて読もうと思ったかどうか。

山のようにある日常の刺激のうちのひとつとして、なるほどこういう漫画ね、とか思って、軽い接触のまま終わったかもしれない。

一杯の珈琲から

できればもっと早く知ってずっと並走していたかったと今は思うのだけれども、年を重ねて日々の変化が緩やかになる年代になって、初めて山川さんの作品群に、ぼくの目のピントは合ってきた。それもたしかなことだろう。

そういう意味ではいい時期に出会うことができたと思う。

山川直人 作品

印象的な一篇がある。

『コーヒーもう一杯 II』に収録されている「夜を着がえて」という短編だ。

女の子の住む町に男が自転車で初めておもむくというどこか奇妙なかたちの待ち合わせをした、ある若いカップルの夜が描かれている。

口数の少ない男と向かい合って定食屋の夕食を食べ、喫茶店のコーヒーを飲みながら、女の子が話すとりとめのないいくつかの話。

ここには、「女のほうからだけ話題が持ち出される、付き合い始めの男女のぎこちない関係」が描かれているのかもしれない。

しかし、最初に読んだ時には、この連続性なく話題が切り替わっていく一篇に、物語とは違うなにか、それ以上の哀切ななにかを読んだような気がした。

さらに言えば、自分の過去のある時期が、ぼく自身は無神経にも気付きもしなかった別の視点と語り口によって目の前で語られているような感じがした。

山川さんの漫画は、いままでこの作家を知らなかったことがどうにも惜しまれると、おそらく出会った人の多くに思わせる宝石だ。でも、自分はこの作品のエッセンスを、もっとずっと昔から、別の場所でよく知っていたような気がする…、そんなふうに誰にも思わせてしまうのも、こうした個々の生を超えた人いっぱんの人生そのものにインティメットな芸術の力だと思う。

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