那覇ドンキの屋上にはでっかいガジュマルがあるよ

ドンキのビルのガジュマル

デジカメ画像のバックアップをしていて、国際通りのオーパビル(当時)の屋上に上がったときの写真を見つけた。

現在はドン・キホーテが入っているあのビルの屋上には、ガジュマルの巨木が植わっているのだ。

フェスティバル、OPA、ドン・キホーテ

那覇の国際通りにあるこのビルのことを、いま現在、正しくはどう呼べばいいのだろう?

これまでは長らく「OPA(オーパ)ビル」で、その呼び方になじみもあったけれど、OPAがいったん沖縄から撤退して、2018年の秋からは泉崎のカフーナ(那覇バスターミナルの建物)に再入居しているので、もうOPAビルとも呼べない。

「ドンキのビル」でも通じることは通じるかもしれない。

OPAビルより前には、ここはフェスティバルビルと呼ばれていた。「フェスティバル」という核となるテナントがあったわけではなくて、建築も含めた全体のコンセプトを意識した名称だったようだ。

 

たしかに中に入ってみれば風通しがよく開放的で、横からも上からも自然光が差し込んでくるつくりだから、一般的なテナントビルとは異なる半屋内の立体的な街空間とは言えそうで、祝祭とまではいわなくても、マルシェのような趣はある。

設計は安藤忠雄だ。当時は外観も含めてコンクリート打ちっぱなしのままだったので、雨に濡れそぼった建物のグレーの色合いを、沖映通り入り口交差点の風景の一部として記憶している人も多いだろう。

 

僕が高校生だった80年代末~バブル期のフェスティバルには、バーゲンの時だけ出入りが許されるような、それでも背伸びをしてお店を見て回るような、少し大人の雰囲気があった。

普段はマキシーの明るいJointで服を買っていた僕たちも、バーゲンになるとお小遣いを握りしめ、暖色系の照明のショップを巡ったものだ。

高1の時に赤富士で買ったハーフジップの半そでニットみたいなのを、3年くらいは大事に着ていた思い出がある。

 

90年代に入ると、バブルがはじけたこともあり、全国的にそれまで若い社会人や大学生が対象だったもろもろの若者文化的な消費市場に高校生世代も流入してきた印象があるのだけど、フェスティバル/オーパも例にもれず、おしゃれな10代の子たちのたまり場の役割も果たすようになった。

それが今はどんどんどん、ど~んき~、のドン・キホーテだから、感覚的には、順を追って庶民化してきたような印象だ。

屋上にあるガジュマルの大木

数年前までは6階(だったか)にタワーレコードがあって、僕もジャズやクラシックのCDを買うために良く通っていた。(タワレコは今はパレットのリウボウにある)

とくにクラシックの輸入盤ボックスセットは、那覇近辺ではここが一番充実していたのだ。

CDを買ったあとに屋上に上がると、大きなガジュマルの樹がある。

じつは僕も数年前にようやくその存在に気付いたのだけど、ビルの屋上にこれだけ大きな樹が植わっているとは思いもよらなかった。

ドンキのビルのガジュマル

神々しさ

ドンキのビルのガジュマル

木陰を作り出している

どうやって運んだのだろう。建物の建設中の写真が残ってないだろうか。

 

そのむかし、フェスティバルの上のほうのフロアには「でぃすこ」があって、普通の中高生にはなかなか近寄りがたいオーラが漂っていたものだ。

しかしそのディスコに夜な夜な集う若者たちも、皆このガジュマルの下で踊っていたことになるのだな(まあべつにいいけど)。

武道館での数々のライブの上には金色の玉ねぎがあり、バブル時代のフェスティバルに交錯した無数の青春の頭上には、このガジュマルがあったわけだ(べつにいいけどね)。

ドンキのビルのガジュマル

建物と一体化しようとしている

300年くらいかけると、アンコール・ワットの樹木に飲み込まれる寺院みたいになるかもしれない。

そして1000年くらいあとで、那覇市役所とともに、バビロンの空中庭園が実在していたような遺跡として発掘されてほしい。そういや一時期はパレットの屋上も緑化されていたんだけどな。

ドンキには行ったことがない

高校生の頃は国際通りも平和通りも通学路の一部だったのに、いまはなかなか足が向かなくなってしまった。

フェスティバル/オーパ/ドンキビルにもタワレコがなくなってからはとんと縁がなく、ドンキにもいまだに行ったことがない。

ちなみにドンキが全国区になったころに東京で入ってみた時の僕の感想は、「なんだか、沖縄のビッグ1みたい」でした。

沖縄三越前(当時)を見下ろす

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